人生を悲観しない
私は人生を悲観しない。
100年後には今生きている人間皆死ぬような原理で皆生きている。
100年後には全ての人が入れ替わる。
今生きている誰も、未来の街並みや起こる出来事を見ることはできないのだ。
だから私は悲観しない。
どんなことがあったって、最後の結果として死が待っている。
終わるのだ。
日々の暮らしのどんな嫌なことも、どうせ死ぬんだからと思えばたいしたことはない。
だったら、周りがくだらないと言って止めることも、人には理解されない自分だけが好きなことも全部勝手にやっていい。
何だってやっていいんだって思ったその日から、私はだんだんと人生に対しての緊張感を無くしていった。
枠や束縛がないことは良いことばかりではない。
そういうものがないと人はなかなか頑張ることができない。
「最後は死ぬんだから」と考えれば色んなことを気にしなくて済む一方で、自分の夢や大好きという気持ちまでもどうでもよくなってしまう恐さがある。
私は一度ここまで書いたようなことを体感し、友だちに行き方の相談をし、自分なりにこれからどうすべきか考えた。
やっぱり、「最後は死」という考え方では自分は上手く生きて行けない。
もっと追いつめられて、もっと焦って、そんな風にして生きて行くことで、きっと、もっと頑張れる。
何にでもまっすぐに向かって行けていたあの頃の自分はそういう風に生きていた。
そんな気がする。
色々あって、自分は変わってしまって、昔の自分には決して戻れないけれども、頑張ることだけは諦めたくない。
それに、どうせ死ぬんだからっていったって、そのときそのときで嫌なことは嫌で、辛いとか悲しいとか思うわけだから。
一寸先は光
一寸先は闇という言葉があるが、一寸先は光という言葉はないのだろうか。
油断するなよ!気をつけろ!というアメリカ映画のワンシーンのような事が言いたかったのだと思う。
人生良くても悪いときもある。
でも悪いときがあれば良いときもあるのではないだろうか。
(希望だが。)
宝くじのコマーシャルを最近テレビでよく見るようになった。
宝くじがあたったら、それは一寸先は光だろう。
しかしマレに聞く宝くじが当たってしまって人生変わってしまった。
などという例は一寸先は闇かもしれない。
この急に大金持ちになった例と似ているのが猿岩石だろうか。
(サルガンセキとタイピングしたが一度に出て来ない。
もう過去の人ということか。
)
有吉ともう一人は名前を忘れてしまったが、ヒッチハイクでユーラシア大陸を横断しろとディレクターに言われたときは、元から闇の人生だったかもしれないけれど、もっと闇に落ちてしまったかもしれない。
ヒッチハイクに行く前は食べて行くのも大変だったという話を聞いた事があるので、飯だけは食えるという点では光に見えたかもしれないが、ご飯の給与などはなかったらしい。
やはり闇である。
しかし無事に大陸横断してからの光これはそうとうまぶしかったと思う。
そして再び芸能界から消え、復帰し、一寸先は光で闇でをよく知っている人有吉と思った今日このごろ。