目に入る商品
今私の周りにあり、視線を動かさずとも目に入るものを挙げていこうと思う。
まずはパソコン、マウス、紅茶の入っていたカップとソーサー、それにスプーン。
数十本のスティックシュガー、水滴を垂らすガラスのコップ、耐久性のあるメニュー表。
テーブル、ソファ、出窓に置かれた植物。
このくらいだろうか。
いや、おしぼりとおしぼりが入っていたビニールの袋、紙ナプキンもある。
そう。私は喫茶店にいるのだが、今挙げた12種類の物は全て「商品」である。
全てどこかに売っているものである。
テーブルやソファは特注かも知れないので、言い方を変えると、誰かが売っているものである。
これら全て一括で販売するということもあり得るが、きっとそれは違う。それぞれに専門業者がいて、この店に卸す権利を勝ち取った商品たちなのだ。
しかし、私のパソコンとマウスは別だ。
これは私が仕事のために必要で購入した。
様々な機種がある中で、これでなければダメだと思わせてくれた商品だ。
高い買い物だったが満足している。
その他のテーブル上のものは、おしぼりの袋まで商品である。
誰かが必要としている限り、また違う誰かがそれをつくり、提供する。
そして対価としてお金を払う。
これは当たり前のことだが、目に入るもの、人間と自然以外は全て「商品」だと考えると少し怖い。
だが、人と生きるということはこういうことなのだ。
誰かが困っていれば誰かが手を貸す、つくれない人はつくってもらう、そうやって私たちは生きてきた。
そうして「商品」ができ「市場」が生まれた。
一度こういう状態になると、すべてを自分でつくってきた時代には戻れない。
お金という存在を無くすことはできても、このシステムは消えることはないだろう。