ペラ紙を定期的に見返す
私の部屋では壁や机の上、引き出しの中に大量のペラ紙が保管されている。
すべてに何か一言二言書かれている。
長い文章のものも多数あり、延々汚い字で書きなぐってある。
日記やノート、段ボール、パソコン上の文書や携帯電話の中にも存在し、いつかわからない見返されるであろう日を静かにただ待っている。
メモや日記はどう書くかではなくて、いかに見返すかであると私の尊敬する人物が言った。
確かにそうだ。
綺麗にまとめて書いても、色ペンを使って書いても見返さなければそこにさほど意味は存在しない。
当然、メモを取るという行為にはそれだけでも価値があることはわかっている。
書くことで人の言葉や自分の曖昧な考えを、自分の持つ言葉に変換し要約することは意味があるし、書くという視覚と触覚に影響する行為をすることで、記憶にいくらか残ることも有用だろう。
でも、一番大事なのは残したメモは何度も見返すことができるということだ。
自分の記憶は信用できないし、メモに残された当時の自分の情報に、過去に自分がどう考えていたかという時間軸上の変化を見付けることができる。
また、メモは記録するという太古から続く人間の普遍的な行為だとも言える。
いつか自分の書いたメモが未来の人達に偶然発見され、昔の人はこんなこと考えていたのだな、字も全然今と違うなと面白がってもらえたらと時々思う。
しかしそんな未来のことよりも、自分自身で近い将来に見返すことができるかどうか、それが問題だ。
まだ保管しているメモをデータベース化したり、見返したりするためのシステムは構築できていない。
そんな大それたものではなくとも、習慣として身につけたい。
現在数百枚の紙切れがお金に化ける日はいつになるだろうか。